はぁ、と大きな溜息を吐いてから、しまったと自分で口を塞ぐ。
 まだ朝の八時過ぎだというのに溜息を洩らすのはこれで二十四回目だ。
 溜息を一つ吐く度に幸せも一つ逃げるという迷信が万が一にでも本当だったりしたら、きっと私の幸せはここ二週間でゼロかマイナスになってしまっているに違いない。
 友達や家族にこの異常なくらいに増えた溜息を注意されてからは気をつけていたつもりなのだけど……駄目だ。無意識に漏れてしまう。
「そんなにも溜息が出る原因はハッキリとしているんだから、早いとこ白黒つけてスッキリサッパリしちゃえばいいじゃない」
 というのが友人の意見で。
 尤もだと思うのだけれど、実行するとなると溜息の数が更に増してしまうことが予想された。
 白と黒。ハッキリキッパリ、パッと決めることが出来たなら、こんなに苦労などしていない。
 けれど、このままというわけにもいかないということもちゃんとわかっているからまた頭が痛い。
 白黒つけなきゃいけない相手が先に動いてくれるのが一番楽なんだけど。
 重い頭で”最善の策”とやらを考えるのも限界に近く、最終的に浮かんだのはそんな実現率はほぼゼロに近い淡い希望で。
 あの人に限ってそんなことするはずがない。出来る人ならこんなことになっていないのだからと、浮かべた期待を自ら完膚なきまでに潰す。
 期待すれば失望が必ず付いてくる。それなら先にそれを潰しておくのが何よりの自己防衛策というものだ。
 そんなことを考えながら下駄箱に手を伸ばす。
「……え?」
 下駄箱を開いた瞬間、目に飛び込んできた物に驚き声を漏らす。
 いつもの見慣れた自分の上靴の上にちょこんと置かれた真っ白な紙。
 まさか、ラブレター?
 真っ先に思い浮かんだのはそれ。
 それでなければ果たし状か。どちらにしても時代遅れな、などと思いつつも少しドキドキしながらその紙を手に取ってみる。
 真っ白な封筒には「福沢玲子様へ」と丁寧な字で書いてあるだけで差出人の名は書いていない。
 ラブレターというにはシンプルすぎる封筒と書かれた文字の筆跡に様々な疑問と憶測が頭の中に浮かんでは消える。
 直ぐに開いて読もうかとも思ったが、ここは下駄箱だ。しかも、今は朝のラッシュ時。
 この場で読むリスクは大きい。
 教室に行ってからこっそり読もうと手紙をポケットにしまう。
 不自然な動きにならないよう努力したつもりだけど上手く行った自信はない。
 逸る気持ちは自然と足を速める。
 友人達から掛けられる挨拶に適当に返事をしながら自分の席に着くと、周りに気付かれないよう細心の注意を払いながらポケットに忍ばせた封筒を取り出す。
 封筒はきっちり糊付されている。鋏があれば切って開けるのだが、生憎挟みは持ち合わせていない。
 乱暴に破ってしまうのは何だか勿体無い気がして、ゆっくりゆっくり、丁寧に口を剥いでいく。
 何とか綺麗に口を開けることに成功し、中身を覗くとそこには便箋と思われる物が一枚だけ入っていた。
 取り出し、その便箋を開いてみる。
 それは封筒と同じく、飾り気など全くないシンプルな便箋だった。
 その便箋には宛名と同じく丁寧な文字でこう綴ってあった。
 先ず一番初めの行に「僕の気持ちです」の一文。
 そして二行開けて「筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる」という何処かで見たことのあるような気がする古文。
 最後に「荒井昭二」という署名。
 封筒と便箋に負けず劣らずシンプルな本文に苦笑が漏れる。
 まぁ、彼らしい、と言えば彼らしいか。
 一番肝心な和歌と思われるものの意味がわからず内容について感想を述べることはできないが、これは間違いなく自分の望んでいた白黒をはっきりさせなければならない相手からのアクションだ。
 最終的にこの和歌らしきものの意味することが自分の望まない言葉であったとしてもどっちつかずのままふわふわもやもやとしているよりずっとマシだ。
 そんなことを考えている間に始業のチャイムが鳴ってしまった。
 気だるそうな声で挨拶しながら入ってきた教師を見て慌てて手紙を引き出しに押し込む。
 和歌と言えば一番に思い浮かぶのは百人一首だ。
 これが百人一首の中の和歌だという自信はないいが、調べてみる価値はあるだろう。
 図書室に行けばきっと現代訳も書いた本があるだろう。
 図書室は基本、昼休みと放課後しか利用できない。
 けれど、昼休みまで待てない。このままでは気になって気になって授業どころじゃない。
 図書室には常に司書がいて、解放はされているのだが……返却貸し出しは行っていない。
 どうしても調べたいことがあるからと懇願すれば、利用させてもらえるだろうか?
 鳴神学園はマンモス校だから、馬鹿みたいに校舎が広い。
 五分休みでは図書室に辿り着いただけでタイムアウト。追い返される可能性も高い。
 けれど……それでも、挑戦せずにはいられない。
 いてもたってもいられないとはまさにこの状況のこと。
 この落ち着かない状態で後四時間以上過ごさなくてはいけないなんて、耐えられるはずがない。
 ダメ元で終業のチャイムが鳴ったらダッシュしよう。
 そう心に決め、教壇に立つ教師の言葉に耳を傾ける。
 が、その声が脳に到達することはなく。右耳から左耳へと突き抜けていくだけ。
 頭の中にあるのはあの手紙に書かれた和歌のことだけだ。
 答えがでるわけでもないのに様々な憶測だけが浮かんでは消えていく。
 きっと良い意味の歌に決まっている。否、でももしかすると別れ歌なのかも。そうだったらどうしよう!
 期待と不安。相反する二つの感情が心の中で渦巻いている。
 早くすっきりしたい、その思いが自然と視線を黒板の上の古びた時計へと向かわせる。
 長い。長い。一分がとても長く感じる。
 熱いストーブに一分間手を乗せると一時間ぐらいに感じるのに可愛い女の子と一緒に一時間座っていても一分間ぐらいにし感じない。
 そんなアインシュタインが相対性を説明した時の言葉が頭に浮かぶ。
 あぁ、確かに納得だわ。
 なんて事を考えながら、何十時間にも感じられる一時間を過ごした。



 そして、チャイムが鳴り響き終業の挨拶が終わるか終わらないかといったタイミングで、教室を飛び出した。
 教師を含めた周りのみんなが目を丸くしているのを視界の端に捉えながらも気にせず走る。
 俄かに混み始めた休憩時間の廊下を失踪するのは困難かつ批判や注意を浴びる行為だが、それも今は気にしていられない。
 お叱りなら後でたっぷりと受けるから。
 心の中でそう叫びながら階段を駆け上る。
 二階上に上った所でようやく図書室の札が見えた。
 最後の追い上げだと足の筋肉をフルに駆使して部屋の前へと向かう。
 ガラリ、と勢い良くその部屋のドアを開ければ、渋い顔をした司書の先生と目があった。
「図書室では静かに、というのは中にいる時だけではなく入る時にも適用されるルールですよ」
 怒ったような顔で咎められ、謝罪しようとしたが、意気が上がっていてどうにも上手く行かない。
 ここで司書の先生の機嫌を損ね本を貸して貰えなくなっては困る。
 だが、焦れば焦るほど呼吸は整わない。
 精一杯、頑張って謝罪の言葉を口にしてみたが、途切れ途切れの情け無いものになってしまった。
 そんなこちらの様子に、司書の先生は小さく溜め息を吐き、
「次の二時間目に図書室を利用する予定のクラスはなかったはずだけど?」
 と訊ねてきた。
 何をしに来たのかを暗に訊いているのだ。
「あ、あの、私、どうしても気になることがあって、和歌の現代訳が載った本、お借りしたいんです。一秒でも早く解決しないと授業どころしゃなくて、その……」
 正直に言ってしまってから、後悔する。
 次の授業で必要だから、と言っておけば話はスムーズだったかもしれない(まぁ、借りる時に学年とクラスを記入しなくてはならないので直ぐに嘘がバレるリスクも高いけれど、今を乗り切れれば後は説教されてもいい覚悟はある)
 脳の酸素が著しく少なくなっているのが敗因だ、なんて冷静に分析している場合ではない。
「……もう直ぐ授業が始まるわよ」
 あぁ、やっぱり駄目だったか。
 そう思った瞬間、身体が一気に重くなった気がした。
 が。
「早く探しなさい。それから、あなたの学年と組、名前を教えてちょうだい。貸し出しカードはこっちで書いててあげるから」
 続けられた言葉は思っていた事とは相反していた。
 苦笑している司書の先生の顔を見て呆けそうになったが、今はそんな余裕はない。直ぐに探し出せなければ追い返されてしまう。
「有り難うございます」
 例を告げ、慌てて辺りを見渡す。
「古文関連はあなたの真横の棚よ」
 教えられ、一番近くにあった本棚に近づく。
 目的のものと思わしき本は直ぐに見つかった。
 かなりツイている。
「私、一年G組の福沢玲子です」
 名乗りながら、本についている貸し出しカードを差し出すべく司書の先生の元へ小走りで向かう。
「福沢玲子さんね。個人カードの方は探しておくわ。本来なら貸し出しカードとトレードなんだけど時間がないし。今回は特別。必ず返しにきなさいよ」
「はい! 必ず。今日中には返しにきますので」
 頭を下げ、言えば、
「勉強熱心なのは感心だけど今度からはルールは守りなさいよ」
 司書の先生はにっこりと微笑み、言った。
 どうやら誤解されているようだが、都合がいいので否定はせずにおこう。
「さ、もう教室に戻りなさい授業が始まるわよ」
 促され、ハッとする。時計をみればもうチャイムが鳴ってもおかしくない位置に針がきている。
「ご迷惑お掛けしました」
 言って胸に本をしっかりと抱ききびすを返す。
「廊下は走っちゃ駄目よー」
 その言葉を背に、図書室を後にした。



 早足で教室へ戻ったが、結局、始業のチャイムには間に合わなかった。
 けれどまたまたラッキーなことに二時間目の担当教師はまだ来てはいなかった。
 何かトラブルがあったらしく少し遅れるのだそうだ、と友人に教えられホッとする。
「……玲子ちゃん、それ何?」
 本を大事そうに抱え、教室に遅れて入ってきたことに疑問を感じたのか、友人が興味津々といった感じで訊いてくる。
「暗号解読のためのスペシャルアイテム」
 答えると友人は訝しげな顔をした。
 まだ何か訊きたそうにしているが、もうこれ以上話す気はないと態度で示す。
 友人はあっさり諦めてくれたらしく自分の机に帰って行った。
 さて、それじゃぁ、と引き出しにしまった手紙を取り出すと書かれた文字を改めて読み直す。
 和歌に興味など一度も示したことも無かった故、その歌が誰の何に掲載されたものなのかわかるはずもない。
 百人一首だと思ったのは簡単な推測と勘だ。
 彼は秀才だから、和歌を知っていてもおかしくはないと思う。反面、彼が和歌などに興味を示すだろうか、という疑問もあった。
 興味があるから知っているのではない。とすれば、授業で習ったとしか考えられない。
 この学校では二年から古文の授業が始まるらしいからその可能性は高い。
 そう仮定したとして、授業で習うような有名な和歌集と言えば思い浮かぶタイトルは多くない。
 興味のない自分でも知っているタイトル。それが百人一首だった。
 かなり一か八かだが、思いついたタイトルを全部借りるわけにもいかないから仕方がない。
 正解であってちょうだい。そう願ながら、借りてきた本を開く。
 目次にはこの本で解説されている歌の一覧が載っているようだ。
 一番の歌から順に確認していく。
 筑波嶺の、と言う出だしだけは頭に叩き込んだ。
 その一文を脳内で反芻させながら、指で本上の歌を追う。
 そして……、
「あっ」
 見つけた。
 十三番目に位置付けられたその歌の下には作者と思われる陽成院という文字と解説のあるページ数が載っていた。
瞬時にその数字を記憶するとそのページを見つけるべく紙をめくっていく。
パラパラという薄っぺらい音は直ぐに ぴたりと止んだ。
 ここだ。
 ドクンドクンといつもより大きな音を立て心臓が脈打っている。
 少し、気持ちを落ち着けなきゃ。
 そう思い一度大きく息を吸って吐き出す。
 それから、ごくんと唾を飲み込んでから、さぁ、かかってきなさい! なんてワケのわからない気合いを入れ、解説を読み始める。
 真剣に読み耽りすぎて、周りの音が一切聞こえなくなっていることには気付けなかった。
 頭の中には紙上に踊る文字が歌の意味を、そして彼の真意を自分に知らせてくれている。
 嗚呼、どうしよう。
 理解した瞬間、力が抜け、へなへなと机上に顔を突っ伏してしまった。
 顔に血液が集中しているのがわかる。
 頬の筋肉は弛み、放っておけば、笑い声を漏らしてしまいそうだ。
 ここが自室のベッドの上などであればこの押さえ切れぬ喜びを転げ回ることで発散させていただろう。
 けれどここは自室ではなくクラスメートが沢山いる教室だ。我慢しなくては……と、思いながら顔を上げると、
「福沢?」
 そこには訝しげな顔でこちらを覗き込む教師の姿があった。
 どうやら歌解読に熱中している間に、やってきたらしい。
「どうした? 気分悪いのか?」
 訊かれ、
「いえ、違います! ごめんなさい」
 慌てて本をしまうと教科書を取り出す。
「けど、顔赤いぞ。熱があるんじゃないか?」
 その指摘とクラスメートの視線が自分に集中していることにまた顔の熱が増す。
「大丈夫です! ちょっとだけぼーっとするけど、問題無いので、授業始めて下さい!」
「そうか? 気分悪くなったら、いつでも保健室に行っていいからな」
 気遣いに例を告げると教師は教壇へと帰って行った。
 あー、吃驚した。
 教師が授業を開始したのを確認してホッと息を吐く。
 視線を横にやれば、心配そうな顔の友人と目が合った。
 広がった誤解に言い知れぬ居心地の悪さを感じながら、大丈夫だと言うことをアピールする為、彼女に笑いかける。
 友人はそれを見ると安心したように笑い、黒板へと視線を向けた。
 普段なら保健室へ行けと言われれば喜んで行くところだけど……今はこの手紙の返事をこの本を確認しながらじっくりと考えたかった。
 こっそりバレないように本を広げ、一度読んだ文章を何度も繰り返し読む。
 さて、返事はどういう作りにしよう。
 普通に返事を書いてもいいが、あちらも趣向を凝らしたのだから、こちらもそうするべきだろう。
 考えながら、黒板に目を移す。
 古ぼけて所々傷が入り、元の木の色が見える緑色の上に白のチョークで意味不明な記号が綺麗とは言い難い文字で書かれている。
 そう言えば二時間目は化学の授業だったっけ。
 今更それを思い出して苦笑する。
 並ぶ記号の横に数字が書き連なって行くのを見て、パッと名案が閃いた。
 ポケットに手を当てれば手のひらサイズの硬い機械の感触。これも、使える。
 あちらが古文なら、こちらは化学で応戦だ。
 そう決め、引き出しの中から友人に授業中に送るため買い置きしていたファンシーなイラスト入りの便箋を取り出すと思い付いた暗号を記し、署名する。
 この返事に彼がどんな反応をしてくれるか楽しみだ。



(0)H Nb Ge Re Ru (0)Be As Ac
 (頭の良い彼だから、きっと解るはず。そう思いながら暗号にベル番を加えて封筒を閉じた)





























答え。
「(0)H Nb Ge Re Ru (0)Be As Ac」は原子記号。

それを原子番号に直すと…((0)は0が原子記号にない為の代用+ヒント的な意味)

「01 41 32 75 44 04 33 89」に。

これをベル打ちで入力すると…?

わたしもです(ハートマーク)




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