普段は口数が少ない方なのだが、一度スイッチが入ると彼の口は止まらない。 今はまさにそのスイッチがオンになった時で。抑揚の少ない声で彼は自分の思考、主張を飽きることなく語っている。 その内容はどれもこれも、聞いているだけで気分が沈んでいきそうなくらい暗いもので。彼をよく知らない者が聞けば大丈夫か少し休めと言われるんじゃないだろうか、なんて失礼なことを考える。 「なんていうか、荒井さんって人並み外れた暗い思考回路してますよね」 思ったことをよく考えずにぱっと口にしてしまうのは悪い癖だ。 この悪癖のせいで敵を作ってしまうことも少なくはなく、友人などからは再三、注意をされているのだが、悪いものを正すというのはなかなか難しいもので。 気をつけてはいるつもりなのだが、少しでも気を緩ませればこれだ。 覆水盆に返らず。口から飛び出した言葉を飲み込み直すことなど出来るはずがない。前言撤回なんて言ってもきっと信じてはもらえないだろうし、今更撤回なんてする気もないのだけど。 相手には不快な思いをさせてしまったのかもしれないが……多分、大丈夫だろう。彼はこの手の言葉で怒りを露わにするような人間ではないはずだ。 そんな自分勝手とも言えるような判断を下し、荒井の顔色を窺ってみれば、予想通りに、というかむしろ、別の意味で予想に反した表情を彼は浮かべていた。 「どうしかしましたか?」 「え?」 どうやら、戸惑いがそのまま顔に出てしまっていたらしい。 自分が口にしたかった言葉を先に口にされ、焦る。 「あ、いや、ちょっと予想外だったから」 それはこっちの台詞です、という言葉が頭に浮かんでいたのだが、そこはぐっとその言葉を飲み込むことに成功した。 「予想外?」 何がですか? とその視線が問うてくる。 「だって、私、失礼なこと言ったでしょ?」 言えば、あぁ、と納得したように荒井は頷いた。 「不快感を表すと思ったんですか?」 馬鹿にしたような笑みを湛え返された質問を、 「いえ、それは思わなかったんですけど」 と即否定すれば、彼は少し驚きを見せた。 「そんな風に嬉しそうな顔をされるとも思ってなかったんでちょっと吃驚した感じで」 「意外、でしたか?」 「意外……と言われるとなんかが違う気がしますね。やっぱり予想外ってのが一番しっくりくる言葉だと思います」 微妙なニュアンスの違いが相手にす変わるかどうかと不安に思ったが、相手はあの荒井だ。心配無用だろう。 その推測通り、彼は「そうですか」と了解の意を示した。 「でも、そう予想外なことでもないと思うんですけどね」 「えー、だって、」 普通は、と言いかけ、止める。 あぁ、そうか。普通というものにこの人を当て嵌めることはできないのだ。 それに、そこに当て嵌められることを、彼は快くは思わないこともこれまでの付き合いの中で知り得ているから。これは言わない方が賢明というもの。 全てはただ自分の彼に対する認識の甘さが招いた驚きだ。自分がどうこうと反論できるようなことじゃない。 「荒井さんのことはそれなりに理解してるつもりだったんだけどなぁ。私もまだまだですね」 それを認めてしまうのは少しショックというか、悔しかったり悲しかったりするが、事実であるならば認めなくてはならないだろう。 意識せず、溜息が漏れる。 「完璧に理解せずとも、それだけ理解していただけていれば、十分だと思ってますよ、僕は。人が自分以外の人間を完璧に認識することなんて不可能ですからね」 「それだけって?」 言われてもどれだけなのかわからない。先にした会話の中で理解度合いを測るものなどなかったように思えるのだが。 「さっき、何か言いかけて止めましたよね?」 「え……っと、あ、はい」 「普通と言おうとしたのでしょう?」 口に出していないはずの言葉をぴしゃりと言い当てられ、若干の驚きを感じる。 「あなたはその言葉が僕には当て嵌まらないこと。そして、それを言われることを僕が嫌うことを瞬時に判断して口を噤んだ」 「ええ、まぁ、」 そうですけどと答える声に力は入らない。 そこまでバレていたなんて。 別にバレても自分に多大な不利益を齎すことでもないのだけど、こんな風に一つ一つを確認されるとなんだか無性に恥ずかしい気分になる。 「でも、それはちょっと考えればわかる事っていうか、荒井さんという自分物をそれなりに知ってる人なら誰にでもわかりそうなことだと思いますけど」 沈みそうになる気分を切り替え、指摘すれば、 「確かにそれこそ、普通は、そうだと思いがちなんですけどね。皆、案外忘れてしまいがちなことなんですよ、これは。それを福沢さん、あなたは直ぐに理解し口にするのを止めた。そのレベルまで頭が素早く回転するというのは上出来ですよ。評価に値します」 上から目線だが、それも荒井昭二というのがどういう人間化を考えれば怒りを感じるようなことでもない。 それに、これは一応、褒められているのだから喜ぶべきことなのだ。 「そこまでバレてたらいわなかった意味がないような気がしますけど」 好意を持つ相手に認められるというのは、純粋に嬉しい。 相手が独自の世界観を持つ滅多に他人を認めない偏屈者となれば、それも殊更。 緩む頬の筋肉を引き締めることもせず、言えば「そんなことないですよ」と否定の言葉が返ってきた。 「したという結果に意味があるんですから」 彼は一見、そういう風には見えないが、駄目なことは駄目、良いことは良いと(まぁ、それは自分基準ではあるのだが)白黒をはっきりさせどんな相手にだってきっぱりバッサリと自分の意見を言う人であるからこれは気遣いなどではなく本心から出た言葉なのだろう。 「そんなもんですか?」 「そんなものですよ」 「そっか」 「そうです」 特に意味のない確認をした後、自然に笑い声が漏れる。 「ご機嫌ですね」 「だって、荒井さんに褒めてもらえたから」 隠さず思ったままを答えれば荒井は眼を丸くした。 「好きな人に褒められたら嬉しいんですよ、普通は」 と冗談っぽく普通を強調して言えば、彼は口の端を少しだけ上げた。 「その普通なら、僕にも少しわかる気がします」 その言葉に今度はこちらが目を丸くする番。 滅多にお目にかかることができない彼の毒気のない笑顔に込み上げる喜びを隠せない。 「荒井さんも私に褒められたら嬉しいですか?」 喜びを一層深いものにしたくて、緩む頬もそのままに確認してみれば、 「否定はしません」 返ってきた答えは素っ気ない答え。 ひねくれた返答しかしないのは彼の特性。こういう場合は脳内で素直な返事に変換してしまうのが一番だ。 まぁ、脳内変換しなくても、否定はしないという言葉だけでも十分、満足なのは満足なのだけれど。 「だからさっきの言葉も嬉しかったんですよ」 さっきの言葉というのが何を指しているのか。一瞬、それがわからずきょとんとしてしまった。 何のことなのかと考え、思い当たった答えから次々と情報が整理されていく。 そうか、あれは彼にとっては褒め言葉なのだ。 「褒めたつもりじゃなかったんだけど」 素直に告げて苦笑すれば、 「貶しているつもりもなかったでしょう?」 荒井は空かさずそう切り返してきた。 その表情からは否定されることはないという絶対的な自信が見てとれる。 実際に、その通り。彼の読みは正解なのだけれど。 「まあ、そうなんですけど……でも、褒めたつもりもないというか……」 これは別に言わなくても良いことだったのかもしれないが、自分の発した言葉が自分の意思とは違う感じに捉えられている事実がどうも気に入らなくて言ってしまった。 「そうでしょうね」 と荒井は顔色一つ変えずあっさりとそれを認めた。 「ですが、僕は褒められたのだと、あなたが僕を理解してくれているのだと感じたんです。言い手と聞き手の捉え方の差なんて常にあるもの。だから、それで良いじゃないですか」 彼には不似合いな楽観的な主張に、何も言えなくなる。 「何と言っていいのやら、ですか?」 心情を代弁され、顔に全てが出てしまっていたのだと気付き顔が熱くなる。 「荒井さんにしては乙女チックな考えだなって思って……」 「確かに、らしくないのは自覚しています」 と、彼の白い肌がほのかに紅く染まっていくのを見てまた驚く。 「こんな僕はお嫌ですか?」 少し照れたような顔で訊かれた問いには「まさか!」という一言とオーバーリアクションでお答えしておく。 「人並み外れた暗い思考しているかと思えば妙なとこでポジティブだったり。かと思ったらやっぱりズレまくってたり。何だか先の読めないホラー映画みたいで面白いです!」 「その喩えはどうかと思いますが」 ボヤいた顔には若干の不満が表れている。 「えー、そうですか? スッゴイぴったりな表現だと思ったんですけどぉ」 不満に思われる理由がわからない、なんて思いながら言えば、 「馬鹿にされている、というわけではなさそうですね」 荒井は呆れと諦めが入り交じったような表情で肩を竦める。 「当たり前じゃないですか! 私、ホラー映画大好きなんですよ?」 自信満々に言い切ると荒井はふっと表情を緩めた。 遠回しだったが伝えたかったことはちゃんと伝わったらしい。 「単純明快より複雑難解な方が飽きがこなくて、良いと思いません?」 問いに、荒井は微笑しながら頷いた。 「それは言えてますね。あなたも、どちらかと言えば複雑難解ですから」 「私が?」 「ええ、あなたがですよ、福沢さん」 自分ではそんな自覚はないのだけれど。と首を傾げる。 「あなた場合は僕と逆で、楽観的で前向き。呆れるくらい明るいかと思えば、僕に引けを取らないくらい暗い頭をしているじゃないですか」 言われ、そういうことかと納得する。 隠しているつもりはないし彼ならば見抜いているだろうと思っていたので指摘されたことに対する驚きは大きくはない。 「引けを取らないくらい、なんて言われるとなんかちょっと否定したくなりますよ」 別に不快に感じているわけじゃないけど、冗談っぽく口を尖らせて言ってみる。 「でも、本当のことでしょう?」 「根拠は?」 「あなたが僕のような人間の傍に好んでいること、です」 答えは簡潔だが、的確。 「どういったわけかこんな僕に興味を抱いて傍に寄ってくる人も少なくはないんですよ。けれどその中の殆どの人は僕のこの思考についていけないと直ぐに離れて行ってしまうんです。でも福沢さん、あなたは違った。あなたは離れて行かなかった。それは何故か。答えは簡単です。共感しているから、ですよね?」 お前はどこぞの探偵かと突っ込みたくなるような語り口だが、推理に違いはない。 人並み外れた暗い頭の中を理解することができるのは同じものを持った者だけ。 同じように考えを持ち合わせる者同士が惹かれ合うのは至極、当然な話だ。 「流石ですね」 肯定の言葉の代わりに称えれば荒井は満足げに微笑む。 この人と自分は、外面上こそ対局な位置に存在しているが、実のところはとても似ている。同じだと言っても過言ではない。 自分が類い希なる性質を持っているということは百も承知のこと。 稀すぎて心から同調できる者がいないことを常々、嘆いていたから。同調できる存在が目の前に現れたことが嬉しくて堪らない。 そしてそれはきっと相手も同じことだと、確信している。 「相互理解がこんなにも心満たされるものだとは思っていませんでした」 思わず漏れた呟きに「僕もですよ」と同意が返される。 言葉一つ、交わすごとに胸が弾むのを感じた。 「この心が満たされることなど、ないのだと思っていましたから」 胸の内に潜んだ大きな穴は深く暗くて。何を落としても埋まらず、ライトで照らしてみても底は見えない。 それが埋まることなど一生ないのだと断言できる。 だが、それでいい。否、それが、いいのだ。 暗いのは心地が良いから。埋まらなくても照らされなくても良い。 その感覚を共有できる人が入るのなら、尚のこと。最高だと思う。 「ねえ、荒井さん」 身を彼の方へと乗り出し、腕を彼の首に絡めながら呼ぶ。 いきなりのアクションに荒井は戸惑いを見せたが、それも一瞬のこと。 直ぐに平静を取り戻し「何ですか?」と訊き返してきた。 「私、もっと荒井さんの話、聞きたいなぁ」 耳元で囁けば、荒井の口の端が上がっていくのが見えた。 「訊かせてくれる?」 計算づくの上目遣いでのおねだり。 その効果か否か、彼は「仕方ないですね」なんて言いつつも語る気満々な表情をみせる。 仕方ないなんて、思ってもないくせに。 心の中でそう言い返しながらにっこりと笑顔を作ると荒井の男にしては白く細い腕がこちらの首へと伸びてきた。 「では、私刑に対する僕の意見を聞かせて差し上げましょう」 荒井は言って、チラリと床に目をやった。 その視線を追えば赤黒く染まった肉塊が目に入る。 それは今し方議題に上った「私刑」を受けた者の成れの果て。 人であったことが疑わしく思えるくらい歪な形になってしまったそれは、驚くことにまだ息があるようでしきりに呻き声を発している。 驚いた、まだ生きてるんだ。原型がわからない状態になっても人は生きれるんだって、後でちゃんとレポートに書いておかないと。 そんなことを考えながらそれを見つめていると、 「けれど、」 と荒井が話を進めてきた。 「一方的に語るのもつまらない」 その声に反応し、視線を肉塊から彼へと戻せば、彼も同じように視線をこちらに戻してきた。 「あなたの意見も訊かせて頂けますか?」 真っ直ぐにこちらの目を見つめながら彼は問うてきた。 その黒い瞳の奥底に狂気がちらちらと見え隠れしていることに気づき背中にぞくりと冷たいものが走る。 さあ、今度はどんな話が聞けるのかしら。 「勿論!」 込み上げる期待感を押し隠しながら全力で頷いたと同時に、彼の口は暗い暗い言葉を紡ぎ始めた。 人並み外れた暗い頭の中 (覗き合えばきっと素敵な世界が見えるはずでしょう?) |